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   第五話「私自身の禁煙体験記」


 2010年4月1日、全国初の「受動喫煙防止条例」が神奈川県で施行された。喜ばしいことだ。
健康にたずさわる医師の一人として、愛煙家(正確には哀煙家というそうだ)が、自身の健康のため、家族、周辺の人々のために、完全禁煙なさることを願って、私自身の禁煙体験を記す。御一読いただければ幸せだ。
私自身は慶応大学医学部学生時代の6年間かなりのスモーカーであった。1日20〜30本吸っただろうか。
 
私よりもヘビースモーカーであった父が脳梗塞でたおれたのは、私が医学部4年の時だ。父は以後、半身不随、言語障害をおこし、2年間寝たきりのまま回復することなく50才台の若さでこの世を去った。亡くなったのは私がインターン時代のことだ。
私は、晩年の父の哀れな姿、その父を介護する母の苦労をみて、禁煙することを決意した。ヘビースモーカーであった父が反面教師として私に禁煙の必要性を教えてくれたのだろう。父から息子への最後のメッセージだったのかもしれない。
そして、私が禁煙に成功した裏に忘れてはならない二人の恩人の存在がある。
一人は父の主治医であり、“内科学の神”といわれた坂口康蔵先生だ。坂口先生は、母校東京帝国大学内科学教授・同大学病院院長・貴族院議員・国立第一病院院長を歴任された方で、当時の日本内科学会の第一人者だ。当時のきわめて封建的な医学界で、一医学生が直接お会いできるような方ではなかった。しかし父が亡くなった後、私は一人で坂口先生の御自宅に御挨拶に伺った。そのおりの緊張感を今でも鮮明に覚えている。その時の坂口先生の教えが、その後の私にとってかけがいのない教訓となった。
坂口先生は書斎で、私に喫煙の弊害を強く述べられ、私が禁煙を決心する源をつくって下さった。現在のように“喫煙即ち悪”という時代ではない。医学生が実験中に実験室内での喫煙を許可されていた頃の話だ。
そして、私が禁煙にふみきったのは、インターンで放射線科を実習している時だ。禁煙当初の2週間は禁断現症で目がまわり、何事にも集中できなかった。その旨をインターンの指導者であった小林公治先生に御相談した。その時の小林先生のアドバイスは、「良い医師になるために、禁煙を貫け!放射線科の実習は出席するだけでかまわない。調子の良い時に個人教授するから、夏休みにでも申し出よ。」今、考えると涙のでるような尊い助言だ。
昔のことで良くは覚えていないが、約3週間でタバコの禁断現症から抜け出せたような記憶がある。その後、私は一本も煙草を吸ったことはない。父より20年以上も長生きをしているのは、禁煙をつらぬけた故だと思う。
今、私が所属している藤沢市医師会は禁煙運動にきわめて熱心で、43の医療機関が健康保険適応の禁煙外来を行っている。これは対人口比から換算すると神奈川県で最も多い状況だ。
私自身は禁煙外来を行っていないが、その代わり藤沢市医師会の中で最も熱心に禁煙治療に情熱を傾けている先生をご紹介する。長谷内科医院院長・長谷章先生だ。長谷先生は、藤沢市医師会禁煙運動推進委員会委員長の他、禁煙運動に関する多くの要職につき、今回の神奈川県の受動喫煙防止条例成功の功労者だ。
実を言うと、私も藤沢医師会の禁煙運動の先駆者の一人だ。内科の青木龍夫先生と二人で藤沢市医師会の理事会を禁煙にした。30年前の事だ。残念だが藤沢医師会では私の功績を忘れているらしい。

          2010年4月1日
矢野耳鼻咽喉科 院長 医学博士 矢野潮