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第二十一話「医師としての第一歩」


 1959年7月1日は、私にとって生涯忘れるこの出来ない貴重な経験をした日だ。そして悲しい日でもあった。
その日、私の父は脳梗塞のため59才で亡くなった。私がインターン生として、慶応病院の外科に配属されていた時のことだ。医師国家試験を受ける前なので、未だ医師免許は取得していない。
 
 1959年 慶応医学部卒業式の日)
当時、私達は横浜の山手に住んでいた。
脳梗塞による半身不随で自宅に寝たきりになっていた父は、亡くなる三日ほど前から容体が悪化し、警友病院(けいゆう病院の前身)の山岡三郎内科部長(慶応の大先輩)に往診をして頂いていた。山岡先生から父の命が長くない事を告げられ、父が急変した時の内科的処置の指示を受け、一時も父から目を離すことのない様に注意された。しかし私は大切な外科学のインターン中の身だ。慶応病院を休むことは出来ないと山岡先生に話したところ、「自分の父親の臨終にも立ち会わないで、何が外科のインターンだ!自分が慶応の外科に話をつけてやる」、と強く叱られた。そこで私は気をとりなおし、自分で外科のインターンの指導者中村先生に電話で事情を告げ、正式な許可を得て父の病床に付き添った。
7月1日未明、いよいよ父の最後が来たことは、インターン生でしかない私にもわかった。山岡先生に連絡する間もなく、枕元に用意してあった注射薬を注射し、最後には心臓内注射まで行なった。父の瞳孔がすでに開いている事を確かめ、「ご臨終です」、と比較的冷静に、母、姉達に告げたのは午前4時31分のことだ。私はその時間まではっきりと覚えている。
父がその2年前に最初の脳梗塞の発作でたおれた時の主治医は、当時の“内科学の神”とうたわれた坂口康蔵国立第一病院院長だった。最後の発作で半身不随になってからは、私の大先輩である山岡三郎先生の治療をうけ、そしてかんじんな最後の時はインターン生でしかない息子一人に最後の治療を託したわけだ。
私は、父から“死の尊厳”を学び、父も満足しながら息をひきとったと思う。
朝早く駆けつけて下さった山岡先生は私の冷静な対応をほめ、立派な医師になれだろうと激励してくださった。
尚、山岡先生がご要望なさった父の病理解剖を、何のためらいもなく受け入れた母もその時代の人としては立派だったと思う。
そして、警友病院で行われた病理解剖の助手を私の親友である同級生が務めたのも何かの因縁だろうか。
外科学のインターン実習よりも父の臨終に立ち会う事の大切さを教えて下った山岡先生、それを快く承諾して下さった慶応病院外科学の中村先生、本当に良い先輩、心ある指導者に私は恵まれていたと思う。
その後の私の医師としての長い人生も、数えきれない程多い方々の恩恵を受けている。そのことについては、院長余話でおいおいと触れるつもりだ。
 

1943年 42才の父。父の左手の下に米軍機の爆撃から家族を守るために造ったシェルターの入り口が見える


             2011年7月1日
 矢野耳鼻咽喉科院長   医学博士 矢野 潮