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第37話「梅チャン先生」
 私は先月で終了したNHKの朝ドラ「梅チャン先生」の主人公に強い親近感をいだいている。開業医同士ということもあるだろうが、私が幼児期を梅チャン先生の診療所の近くで過ごしていたのが、一番の理由だろう。
横濱で生糸貿易をしていた私の父はアザレアの栽培を趣味にしていたが、趣味の域を超えて未品種のアザレアを作ることを夢見て、蒲田に農園を造った。照日園という。そこで私が生まれ6才迄蒲田に住んでいた。慶応幼稚舎に入学し洗足に転居する迄の幼児期は梅チャン先生の近くにいたことになる。
 
蒲田当時 左は従兄弟 当時は戦時色豊か
尚、私の母方の叔父は蒲田蓮沼町で小児科医院を開いていた。その頃、地域医師会があったとすれば、私の叔父と梅チャン先生は同じ医師会に所属していたことになる。又、私の二番目の姉は今でも蒲田に住んでいる。
私の想像では、梅チャン先生が卒業した医専は明らかに帝国女子医専だ。現在、帝国女子医専は東邦大学医学部と改名している。
私自身は慶応医学部出身だが、長姉の疋田昌子(鵠沼海岸の疋田眼科の院長)は帝国女子医専が母校だ。ドラマから推察すると、姉は梅チャン先生の1~2年先輩のようだ。
そして更に偶然だが、私の診療所で週一回レーザー治療を行っている次女さゆりは東邦大学医学部出身で梅チャン先生の後輩にあたる。
東邦大学の父兄会は青藍会と名付けられている。私はさゆりが在学している6年間、青藍会の理事に任命され、さゆりが医学部6年生の時には青藍会の会長の重職を与えられた。他校の卒業生が青藍会の会長を務めるのは、今もって例外とのことだ。
青藍会の銘々の由来は、“藍は青より出でてその色いよいよ青し”で学校当局、学生、父兄の結びつきを強くするためと言われている。
東邦大学医学部は私の母校慶応医学部に比べるとはるかに家庭的な優しい雰囲気だった。もし私が梅チャン先生の父上(おそらく国立大学医学部内科教授)のような頑固な性格だと学校当局が感じていたら、私を青藍会の会長にはしなかったであろう。学校当局と父兄会との間に隙間があいてしまうからだ。
 
さゆりの卒業式の日、当時の医学部長、大学病院の院長と並んでひな壇から父兄を代表して祝辞を述べた時の緊張は今でも覚えている。
「諸兄は大学卒業後、基礎医学の研究者、大学病院及びその関連の総合病院で研究・最先端医療に没頭する勤務医、或いは実地開業医の道のいずれかを選ぶだろう。 中略。 開業医は常に自分のクリニックにいて、笑顔で患者さんに接することが重要である。 後略。」まるでテレビドラマ「梅チャン先生」を頭に描いたようなスピーチをした記憶がある。

 
 
青藍会卒業式 鏡開き
  左より医学部長・卒業生2人・私
更に、嘘のような偶然だが、蒲田で過ごした幼児期、私の身の周りを世話してくれた私付きのお手伝いさんの名前が“梅”で、私は梅チャン、梅チャンと呼んで母親のように慕っていた。この梅チャンとは洗足に転居した時に別れた。その後も蒲田に住んでいた私の梅チャンは、米軍の爆撃のため消息不明になってしまった。
今、私の梅チャンの事を思い出していささか感傷的になっている。
最後に懐かしい私の梅チャンがポーズをとっている思い出の写真をのせる。撮影(1938年夏)、家族で鵠沼海岸に海水浴に行った時の写真だ。遠くに江ノ島が見える。

 
 

          2012年11月1日
矢野耳鼻咽喉科院長  医学博士 矢野 潮