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第55話「ナイチンゲールの手
 30年以上前、私は慶応医学部以来の親友が院長の大病院で、胃のバリューム透視検査を毎年のように受けていた。非常に多忙な友人は、検査が終わると、「大丈夫だよ、又ね!」、と言って挨拶もそこそこに消えてしまう。ところが、ある年の検査の後、今までにない優しい態度で私の傍に来て、「今度は内視鏡をやった方が良いだろう。予定を組んで連絡するよ。」と言いながら玄関まで送ってくれた。医師は患者さんに優しい事が重要な事は分かっているが、彼と私は100年の知己、玄関まで一緒にくるなど只事ではない。彼が胃癌を疑っているなと、私自身勝手に決めてしまった。いつものように電車にのる元気もなくなり、タクシーで帰宅。そのタクシーの運転が考えられない程の無謀運転。胃癌で死ぬより自動車事故で死んだ方がましだと考えた事を鮮明に覚えている。
内視鏡検査当日、胃内視鏡は彼の後輩が専門だというので、その医師におまかせ。勿論、親友も検査室に付き添ってくれた。
 
今と違う古い時代の内視鏡だった筈だが、以外に簡単にのみこむ事が出来た。検査そのものの肉体的苦痛はなかったが、精神的には恐怖におののき、検査台の脇にいる看護師(当時は看護婦)さんの手を検査の間中握りしめていた。その手を握りしめる事で恐怖心をまぎらわせる事ができた。顔も年齢も忘れてしまったが、その看護師さんの手のぬくろみだけは今でも忘れていない。
検査結果は正常だった。
後年、藤沢市の看護学校で、耳鼻咽喉科学の講師を仰せつかった時、最終講義の締めくくりは、次の言葉と決めていた。

フローレンス・ナイチンゲール(1820.5.12.~1910.8.13)
イギリスの看護師で近代看護教育の母。
医師にとっての「ヒポクラテスの誓い」と同じく、看護師は載帽式や卒業式に、「ナイチンゲールの誓い」をたてる。

         2013年5月1日
矢野耳鼻咽喉科院長  医学博士 矢野 潮