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第69話「水泳教室
 
夏が近づくと、耳鼻科医は“水泳許可?・不許可?”の相談を受ける事が多い。中耳炎と水泳の関係については病気の説明の所に詳しく述べてあるのでそこを参照していただきたい。私は、中耳炎の急性期以外は原則として許可するようにしている。水泳は幼い時の方が、早く覚えられるからだ。そして、“泳げる”、ということもその人の教養の一つだと思う。
水泳教室も盛んだが、私は“泳ぎの覚え方”、に一家言をもっている。子供の頃にさんざん努力した経験があるからだ。
私の父はよほど暇人だったのだろう。5才の私に泳ぎを仕込む事に熱中していた。
最初に教えられたのは顔を水につけての呼吸の仕方だ。その頃はプールで自由に泳ぐ習慣がなかった。泳ぎに行くといえば海だ。当然、季節は夏に限られる。次の夏にそなえて、冬の間に水泳の呼吸方法をしこまれた。洗面器にぬるま湯を入れ、それに顔をつけて呼吸の稽古だ。口からすって鼻からはく。くり返しくり返し練習した。そして、顔についている水を拭く事は禁止だ。そして、息を吸うために顔をあげるのは右側と決められていた。その理由は後で書く。
次に、部屋の中に置かれた小さなベンチの上にうつぶせになり、その上でクロールのホームの練習だ。父も水泳が特に得意だったわけではないが、水泳の本を読み研究したらしい。私が今でも覚えているのは、父が水泳の本を読みふけっていた事だ。著者は誰だか覚えていないが、青色の表紙で私にとってもなつかしい本だ。その本に出ていた遊佐正憲選手(1936年ベルリンオリンピック・自由形銀メタリスト)のクロールの分解写真の真似をベンチの上で何回も何回もくりかえし教え込まれた。いわゆる畳の上の水練だ。
そして待望の夏、いさんで鵠沼海岸に行った。呼吸とフォームは出来ている。後は水に浮くかどうかだ。最初、私のお腹の下に手を当てていた父が、「手をはなすが、体に力を入れるな。必ず浮くから自分を信じろ!」次の瞬間、私は水上に浮かんでいた。何と、簡単なことだったろう。
後は泳げる距離を延ばすだけだ。呼吸する時に、父は左に顔をあげるので私が右にあげれば、並んで泳ぐ時に互いの顔を見ることが出来るという作戦だったようだ。
父の水泳に対する興味は競泳のスピードではなく、きれいなフォームで泳ぐことにのみ価値観を持っていたらしい。
又、その頃の鵠沼海岸の海は、かなり沖まで泳いで行っても海底の貝が見える程、海水が澄んでいた。
然し、私もいつまでも子供ではない。当然、数年後には友達と遊ぶ方が楽しくなった。いわゆる親離れだ。後になって、父がすごく寂しがっていた という事を母から聞いた。

 
友人と遠泳する院長 
そして、世代が変わり、ゆかり副院長が小学校に入った頃、ゆかりに水泳を教えることになった。私は喜びいさんで藤沢のプールで自信満々クロールのフォームを娘に指導した。その時、プールサイドで、にやにやしながらその光景を見ていた若いインストラクターが、「そんなフォームを教えるのは良くない。そのフォームは戦時中のものだ。敵の狙撃兵から身をまもる泳ぎ方だ。矢野さんはその泳ぎ方を海軍で教わったのか?」
私はそんな年ではない。然し時代と共に水泳のフォームも大きく変わった事を知らなかった。
プライドは少し傷ついたが、気をとりなおし専門家にまかせた。
考えてみると、父には水泳を本で研究する暇があった。私は開業当初の事で極めて多忙。水泳の本を読む時間などなかった。今度は私から子離れした。





         2015年7月1日
矢野耳鼻咽喉科院長  医学博士 矢野 潮