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第78話「恩人父子」

左から二人目が私

私には生涯忘れることのできない、というより忘れてはならない恩人父子の存在がある。
父上は三宅武雄先生、ご子息は三宅浩郷先生だ。
話は古く、1941年(昭和16年)に迄さかのぼる。私が慶応幼稚舎(小学校)に入学した最初の担任の先生が三宅武雄先生だ。1年生から3年生まで担任だった。6人姉弟(姉5人の末弟)として育った私は、学校という集団生活になじめず不安な日々を送っていた。何故かわからないが、おそらく今の学校教育では禁句になっているであろう“エコヒイキ”をして三宅先生は私に自信をつけて下さった。1年生最後の日、帰宅しようとしていた私を三宅先生が呼び止め、「来年度から君を級長にするからそのつもりでいなさい」、とささやかれた事を鮮明に覚えている。
それ以後、私は小学校生活が楽しくなった。そして、3年生まで担任を務めて下さった三宅先生は、その頃の日本国では非国民として非難されていた反戦思想で数人の先生方と共に退校を余儀なくされた。当然、担任の先生は変わった。そして、太平洋戦争が風雲急をつげ集団疎開が始まったが、母の希望で私は集団疎開をせずに、鵠沼海岸の湘南学園に数ヶ月間個人疎開をした。そして終戦、私は慶応幼稚舎に復学した。
担任の頃、三宅先生は後の慶応大学耳鼻咽喉科講師に就任された御子息浩郷先生(当時、慶応普通部・中学校)をお連れになり、私の自宅、夏は鵠沼海岸の別荘にたびたび遊びにみえた。
戦後の混乱、三宅家とのお付き合いもとだえた。
そして時がたち、私が慶応医学部に入学(1963年)し、インターン生として、慶応病院で耳鼻咽喉科の研修を受けた。その時、何年ぶりかで三宅浩郷講師にお会いした。怖いほど熱心に私を指導して下さった。三宅講師の強いすすめで私は慶応の耳鼻咽喉科に入局した。
そして、1969年に私は現在の地で開業、それと殆ど同時期に伊勢原に東海大学病院が設立され、その耳鼻咽喉科の初代教授として三宅浩郷先生が慶応から赴任なさった。
 
 三宅教授(東海大学当時)
 三宅先生のアドバイス(命令?)で、私は週一回東海大学の勉強会に出席し、東海大学の先生方とも親しくなる機会を持つことが出来た。そして、三宅先生も週一回数時間私のところで診療をして下さった。
更に重要な事は、三宅教授が北里大学医学部を卒業したゆかり副院長を、北里大学から東海大学にトレードして教育して下さったことだろう。
人生の長い経過の中で、三宅先生父子、私共父娘が師弟関係を持ち続けた事は奇跡に近いことだろう。
更に続けると、東邦大学医学部を卒業して東邦大学の耳鼻咽喉科に入局した次女さゆりを、東邦大学の小田教授に紹介して下さったのも三宅浩郷先生だった。
いくら狭い医師の世界でも、私のように恵まれた人間関係を築けたのは、ほとんど奇跡と言えるだろう。

 残念だが、三宅武雄先生、三宅浩郷先生、小田先生も他界なさって久しい。


 
         2016年4月1日
矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮