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第117話
  「藤沢医師会ゴルフ部との出会い」


 話は古い。私が善行の地に矢野耳鼻咽喉科を開設したのは1969年1月の事だ。その春は、例年にない程の杉花粉の飛散が多く、開業直後から極めて多忙だった。杉花粉が一段落した5月頃、私は肉体的、精神的に疲労の極地におちいった。
病院勤務時代は、常に多数の同僚医師に囲まれていて、共通な話題も多く退屈する事もなかった。開業当初は、妻及び親戚の一人に受け付けを頼むという所謂“三ちゃん医療”、で共通の話題の相手がいない。休みの日など散歩をする位しか時間のつぶしようがない。患者さんを診る多忙な日と無為な日のくり返しだった。その様な時、散歩の途中で何気なくゴルフの練習場に入った。それが私とゴルフの出会いだった。その練習場の所属プロに、ゴルフの初歩を教わった。休みの日は夢中になって練習場に通った。それから数ヶ月後、藤沢医師会から、小田原医師会と野球の試合をするから、医師会館に集まるようにとの連絡があった。野球は自信があったので喜んではせ参じた。然し、その会合は野球の話はそっち抜けで、ゴルフの相談会のありさまだった。唖然として座っていると、大先輩から、君はゴルフをやらないのかと質問された。練習場には通っていますが、コースには行ったことはありませんと答えた。「丁度良い、次回の医師会ゴルフコンペに欠員が出たから出場する様に!」。最初は辞退したが、大先輩達の好意あふれるお誘いに甘えることにした。
 
確か、12月の事だったような記憶がある。その頃のゴルフ部の会長は、山川彦一先生(現山川医院の先代院長・故人)でユーモアあふれるダンディーの方で、その話術も面白かった。又、補佐役の奥様も素敵な方で、ご夫婦は本当におしどりご夫婦だった。その他には、慶応の大先輩の小林重雄先生(本鵠沼の小林内科の初代院長・故人)、石井凉先生(婦人科・故人)等々、今では考えられないスケールの大きな方々の集団だった。殆ど同時期に入会したのが、整形外科の木島英男先生で、終生の良きライバルだ。
 
ゴルフ場のマナー、エチケットを1~10迄教えて下さったのがこの方達だった。そして、医師会のコンペ以外のプライベートでも、毎週のように、ゴルフ場にさそって下さった。そして、私は次第にゴルフというスポーツにのめり込んでいった。
 
その方達を通じて、医師会の交際範囲の輪がひろがり、「矢野君は、医師会の仕事を何もしないのに、友達が大勢いる」と、うらやましがられたのもこの時期だ。
山川彦一先生が亡くなった後の後任の会長に、木島英男先生と私の名があがった。木島先生は医師会の公的な仕事に多くたずさわっていたので、何もしていない私が、ゴフル部の二代目会長をお引き受けする事になった。
ゴルフ部に所属して多くの知人を得た事は、藤沢における私の開業医人生を豊かなものにした。
ゴルフ部には、医師会から公的な援助金が出ているのだから、“矢野潮も医師会の仕事を十分にしたのだ”、と自負して良いのだろうか?
未だに、自問自答している。
最後に述べたい思い出は、酒井達二先生(辻堂の酒井医院の前院長)の助言だ。ゴルフ場の帰路の車中で、私が柄にもなく医師会の政治的な話題に触れると、一喝された。
「君は医政の話などするな!似つかわしくない」今、考えると素晴らしいご助言だと思う。以後、私は自分にとって嫌な事からは逃げる様にしている。
 今も、私の書斎にかけてある曾野綾子氏のカレンダーには次の様な文言が書かれている。





            2019年8月1日
矢野耳鼻咽喉科院長医学博士    矢野 潮