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第125話「鵠沼海岸」

 新型コロナール感染症で国道34号線が交通規制された。“密”を防ぐために、若者を都会から海岸に誘導しようという作戦だ。
学生時代、私は国道34号線(ドライブウエー)沿いにあった別荘に住んでいた。ドライブウエーは、私が青春を楽しんだ海岸道路だ。今は二車線だが、当時は一車線で、両側が林道にかこまれていた。
終戦前、34号線を歩いていた私は米軍機に射撃され、松林に逃げ込んだことがある。海岸線に多数の軍艦が展望できたが助けに来てくれなかった。
終戦直前、東の空が真っ赤に染まった事を記憶している。東京大空襲で起こった火の手だ。その時、東京の我が家も消失した。
間もなく戦争が終わり平和が訪れた。
終戦直後は34号線の交通量が少なく、ローラースケートの練習に最適だった。鵠沼海岸から茅ケ崎海岸まで、ローラースケートで滑って行ったのは楽しい記憶だ。
 
 34号線にて自転車に乗る院長

段々と交通量が増え、米軍のジープが我が物顔に走るようになった。
「ギヴ ミー チョコレート」の時代到来だ。事実、海岸線に住んでいた知人女性が、米兵と一緒になりアメリカに行ってしまった。
更に数年後、鵠沼海岸は海の社交場となった。夏は海水浴の到来だ。海岸に海の家が多数できて、海水浴場がビーチパラソルを立ててくれるようになった。
海水浴には良い思い出、嫌な思い出も沢山ある。海岸友達が大勢できた事、ビーチベースボールを楽しめた事は良い思い出だ。
 
 庄さんと父
一番嫌な思い出は、カメラ好きな父が、全裸に近い姿で地引き網をしていた漁師の姿を撮影して、激怒した漁師にカメラを壊され、殴られそうになったことだ。その後、網元に頼んで漁師さんにお詫びして、和解が成立した。その漁師の名前は庄さんという。その後、庄さんと仲良くなり海岸生活がより楽しくなった。
私が小学生の頃、沖で”カツオノ烏帽子(電気クラゲ)”に襲われ溺れそうになった時、助けてくれたのも庄さんだった。



         2020年8月1日
矢野耳鼻咽喉科院長医学博士 矢野 潮