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第30話「母の生涯」
 私が愛読している曾野綾子氏はそのエッセイの中で、「自分は親しくお付きあいした友人が亡くなっても、追悼文というものは絶対に書かない」、と語っている。その理由として、生前その友人が心の中で何を考えていたかなど、他人に正確に分かるはずはない。人は自分の事さえ正確に理解していないかも知れないときってすて、分からぬままに追悼文を書くなど故人に失礼極まりないと述べている。
私は今回の余話で、17年前に亡くなった母のことを書こうとしているが追悼文ではない。母の生涯を時系列的に述べ、特に医師として母の臨終の場面に主眼を当てて書きたいと思っている。

私の母は横浜一般病院の医師の娘として、1903年に生まれた。横浜一般病院は横浜の山手に1843年(文久三年)、外人(その頃は異人といった)の患者さんを主に診察する目的で創立された病院である。小児期の母の友達は外人が多かったと聞いている。母の父親は関東大震災の時に、患家への往診中に馬車の中で圧死した。
その後母は生糸貿易業の父と結婚、6人の子供をもうけた。女子五人、男子一人、その男子が私だ。
関東大地震、太平洋戦争、戦後の物資食料不足に悩まされ、6人の子供を育てるのにかなり苦労をした。
夫(私の父)を55才の時に亡くしたが、子供達も無事に成長し、母の希望通り私も医師になった。長女は眼科医となり鵠沼海岸で
疋田眼科の院長であり今も診療している。
私が1962年に結婚し、1969年に開業してからは長男である私と共に暮らした。私の妻とも折り合いが良く、二人の孫娘、ゆかりと、さゆりを心から愛してくれた。孫二人も普通以上になついていた。
60才過ぎてからは、木彫りと皮彫刻の趣味の世界に没頭していた。特に木彫りの腕は玄人はだしと評価されていた。

平和な生活にも歳月は静かに流れる。88才になっていた母は木彫りの個展を開いた。母の生涯に与えられたささやかな勲章であったかもしれない。
 
 
その後も趣味の生活に没頭していたが、90才を過ぎる頃からさすがに老いが目立つようになった。
1995年4月22日(土)に顔色が悪い事に気づいた妻からクリニックにいた私に連絡が来た。
日頃から親しくお付き合いしている斉藤信義先生(湘南斉藤クリニックの院長)が直ぐに往診してくださった。斉藤院長のご厚意で個室に即刻入院した。
長女ゆかり(現副院長)は当時大学病院の医局員、次女さゆりは医師国家試験に合格直後だった。二人とも湘南斉藤クリニック(石上)に駆けつけて来た。誰の目にも母の寿命が一両日にせまっている事は明らかだった。私も含め3人の医師が母の病床に付き添ったことになる。「この病室をお貸しするから自由にお使い下さって構いません。必要な時はいつでもお呼び下さい。ご家族だけで看取られるのがお母様も一番幸福でしょう。」大病院では考えられない斉藤先生のご厚意ある暖かい言葉だ。
母の右手に長女ゆかり、左手に次女さゆりが付き添い点滴、酸素等最後の努力を懸命にしていた。私は一歩離れてその光景を見ながら不思議な感慨にふけっていた。もう私の出る幕ではない。二人の娘にまかせよう。余話21回に書いたように、37年前の父の臨終の時はインターン生でしかない私が一人で父を看取った。母の場合は立派に育った医師が二人も両側についている。
私の姉達も集まり部屋は満員になって来た。意識が薄れかけていた母がはっきりと言った。「皆集まっているなら、ちょうど良いから、三笠会館にでも行って食事をしたら良いのに。」これが母の最後の言葉になった。何と母らしい言葉だろう。その時私は嗚咽した事を覚えている。
土曜日の夕方入院した母は苦しむこともなく眠るように月曜日の未明息をひきとった。
享年92才、母の臨終は良い子供達、可愛い孫、献身的な嫁に囲まれた幸福な最後だったと思う。
斉藤信義先生への感謝の念は今でも忘れることは出来ない。

            2012年4月1日
 矢野耳鼻咽喉科院長  医学博士 矢野 潮