私が愛読している曾野綾子氏はそのエッセイの中で、「自分は親しくお付きあいした友人が亡くなっても、追悼文というものは絶対に書かない」、と語っている。その理由として、生前その友人が心の中で何を考えていたかなど、他人に正確に分かるはずはない。人は自分の事さえ正確に理解していないかも知れないときってすて、分からぬままに追悼文を書くなど故人に失礼極まりないと述べている。
私は今回の余話で、17年前に亡くなった母のことを書こうとしているが追悼文ではない。母の生涯を時系列的に述べ、特に医師として母の臨終の場面に主眼を当てて書きたいと思っている。
私の母は横浜一般病院の医師の娘として、1903年に生まれた。横浜一般病院は横浜の山手に1843年(文久三年)、外人(その頃は異人といった)の患者さんを主に診察する目的で創立された病院である。小児期の母の友達は外人が多かったと聞いている。母の父親は関東大震災の時に、患家への往診中に馬車の中で圧死した。
その後母は生糸貿易業の父と結婚、6人の子供をもうけた。女子五人、男子一人、その男子が私だ。
関東大地震、太平洋戦争、戦後の物資食料不足に悩まされ、6人の子供を育てるのにかなり苦労をした。
夫(私の父)を55才の時に亡くしたが、子供達も無事に成長し、母の希望通り私も医師になった。長女は眼科医となり鵠沼海岸で
疋田眼科の院長であり今も診療している。
私が1962年に結婚し、1969年に開業してからは長男である私と共に暮らした。私の妻とも折り合いが良く、二人の孫娘、ゆかりと、さゆりを心から愛してくれた。孫二人も普通以上になついていた。
60才過ぎてからは、木彫りと皮彫刻の趣味の世界に没頭していた。特に木彫りの腕は玄人はだしと評価されていた。
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