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第49話「武見太郎先生
 武見太郎氏(1904~1983)・1957年から25年間の長きにわたり、日本医師会長として君臨し、1975年には世界医師会長の要職につく。喧嘩太郎の異名を持ち、1971年7月には保険医総辞退を指揮した。又、時の厚生大臣の訪問を門前払いした逸話の持ち主だ。
武見太郎先生
日本医師会提供
その強面の武見太郎氏に心優しい一面がった事をご紹介したい。
矢野耳鼻咽喉科の副院長・矢野ゆかり(私の長女)が北里大学医学部の1年の時、医学史のレポートを提出するように命ぜられた。宿題だったと記憶する。読書家のゆかり副院長は野口英世の業績から、加藤元一(不減衰学説でノーベル賞候補にあがる)の著書まで読みあさった。然し、レポートの完成がものたりなかったらしい。
怖いもの知らずというか、自分で武見氏に手紙をだした。お返事を頂けるとは思っていなかったらしい。驚いたことに、武見氏ご自身から私共の家に、「自宅で会い面談したい」、というお電話があった。武見氏は慶応医学部卒(私の大先輩だが一度もお会いしたことはない)、ゆかりは北里医学部の学生だ。厚生大臣さえ追い払った強面の武見氏が、ご自分の後輩でもない一医学生をご自宅に招いて下さったのだ。我々は感激で震えた。
ゆかりは、花束を持ち武見先生のご自宅に一人で向かった。
武見先生は、優しくゆかりに医学史の話をして下さり、今後、「ゆかりが歩くべき医師の道」、を説いて下さったという。そして、夕食までご馳走してくださり、武見先生の座右の銘である「医心貫道」の色紙を書いて下さった。この色紙は、額に納めて私共の診察室の壁に飾ってある。私共のお宝だ。
大人(タイジン)は小人(ショウジン)を育てるべし その小人(ショウジン)は育ちて後 続く小人(ショウジン)を大人(タイジン)に育てるべし
             誰の言かは忘れた

         2013年11月1日
矢野耳鼻咽喉科院長  医学博士 矢野 潮