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第52話「福沢諭吉先生」
 一万円札の表紙の福沢諭吉を知らない日本人はいないと思うが、平成の今となっては福沢諭吉が何を成し遂げた人か、日本にどんな功績を与えた人物かを知らない人も多いだろう。
福沢諭吉:日本の文明開化(幕末から明治初頭)にもっとも功績のあった教育者、思想家、そして慶應義塾の創始者。
 
私が慶応幼稚舎(幼稚園ではない・小学校)に入学したのは太平洋戦争が始まった1941年のことだ。その後、慶應義塾の一貫教育を受け1959年に慶応医学部を卒業した。更に、インターンを含め慶応系の病院に勤務すること10年、28年間慶應義塾に席をおいたことになる。
私には当然福沢イズムが浸透した。特に幼稚舎というのは特徴の強い小学校で、徹底的に福沢精神を吹き込む教育をする。“福沢先生は偉大な先生でした”と、明けても暮れても教え込まれた。自我の育っていない小学生は、福沢先生を神のように敬うようになる。今では悪い意味で使われることが多いようだが、いわゆる洗脳教育だ。我々の時代、医学部は1学年80人だった。その中で幼稚舎出身者は4人のみ。他校から受験してきた学友達は福沢精神に洗脳されていない。
 
 

幼稚舎から医学部に入った同級生  後列が私
20125月  医学部クラス会  帝国ホテルにて

私が、医学部高学年の頃、慶応大学で福沢先生をめぐってある事件がおこった。経済学部の大学2年生が床屋で、「福沢諭吉って言う奴は小沢栄(俳優)に似ている」、と放言した。その言葉が運の悪いことに隣で頭を刈っていた慶応右翼の教授の耳に入り、教授会の決定でその学生は即刻退学させられた。その慶応大学の対応を時の大評論家の大宅壮一氏が真っ向から非難。慶応大学は、“福沢諭吉を神格化している。退学処分を取り消すべし”、と論評した。大学当局側は、“慶應義塾は私学である。その祖を尊敬していない生徒に教育する義務はない”、として、退学処分をとり消さなかった。その是非をめぐって、若かった私は医学部の同級生と大論争をした。幼稚舎出身者は日常の会話の中でも、本能的に福沢諭吉と呼び捨てにはしない。福沢先生という敬称を無意識につける。まして、“福沢諭吉っていう奴は”、とは口が腐っても言うことはない。私は勿論、大学側の処置を支持した。然し、医学部の学友の多くが、大宅論に賛同したため、口角泡を飛ばして議論した記憶がある。
それから数年たった1959年~1960年、日本中を震撼させた安保闘争(日米安全保障条約に反対する大規模のデモ)が起こった。それに参加しようとする学友と私の間で再び意見が対立した。福沢諭吉原理主義が私の中に再び目覚めたのだ。幕末、政府軍と彰義隊が上野の山で戦っている砲声が響くさなか、福沢先生は経済学の講義をやめず、「塾生の本文は学ぶことにあり、政治、戦いに荷担してはいけない。この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である」と、塾生を励ました有名な逸話がある。私はその教えをたてにとり、医学を学ぶことの大切さに比べたら、安保闘争などたいした問題ではいと言い切った。学友は政治に無関心の私のことを強く非難した。今になって思い返すと若気のいたりだろう
更に数十年たち、本年5月医学部のクラス会があった。年甲斐もなく再びその学友と議論した。千円札の表紙野口英世(細菌学権威者)と、福沢先生のどちらが日本に貢献したかという子供じみた話題だ。医学の徒として、私も野口英世の偉大さは勿論知っている。然し、私は福沢先生の方が野口英世より10倍偉大だと論じた。根拠は実に明快だ。





御命日(雪池忌)は 1901年2月3日のため、今月の余話に福沢先生にご登場いただいた

          2014年2月1日
 矢野耳鼻咽喉科院長  医学博士 矢野 潮