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第54話「我が開業奮闘記」
 神奈川県医師会報という雑誌がある。月一回発行される医師会の業界誌だ。
その雑誌に新規開業した医師が、「我が開業奮闘記」、という題目で自分の開業当初の模様を書く。写真入りというのが条件のようだ。いわば神奈川県医師会員への自己紹介だ。
私が開業した40数年前はそのような企画はなかった。今更、私が神奈川県医師会に自己紹介をするのもおもはがゆいので、医師会報に投稿するつもりで、この余話に40年前の事を思い出しながら開業当初の事を書く。
我々は、医師国家試験を合格後、医師免許を取得し、大学医局に入局する。フレッシュマンと呼ばれる新人医師は、先輩から研究、実地を仕込まれ、約10年位で一人前の医師となる。そして基礎医学、大学病院を含む勤務医、開業医の道を自分で選択する。生来、人好きであった私は開業医の道を選んだ。
私は1969年11月、藤沢市善行で開業した。私がその地を選んだのは、青春時代を過ごした湘南地方に愛着があった事と、鵠沼海岸で開業している疋田眼科の院長(疋田昌子・私の実姉)のアドバイスによる。資金面、精神面でも、姉の援助があった。今でも姉には深く感謝している。

旧医院  1969年 開業
現在は善行駅西口近くに移転
又、藤沢市医師会にはおおらかな先輩が多く、大きな人の輪に入り込むことが容易だった。
又、その頃の業者さんは人情味が豊かで、医療器具屋、薬品問屋も私の開業が軌道にのるまで集金に来なかった。
そのため、開業当初から私は精神的に余裕を持つことが出来た。
精神的な余裕、それは開業医にとって宝だ。心配事を抱えながら患者さんを診るのでは、診療がおろそかになってしまう。私は開業当初から心穏やかに患者さんに接する事が出来た。
善行団地(当時、2700世帯)が近くにあったためか、開業1週間後には1日に100人以上の患者さんが来院した。当時の神奈川県の支払基金の話では、新規耳鼻咽喉科開業医の伸び率の最高を記録したという。
数年後に設立された藤沢市民病院とも親密な関連を持つ事が出来た。何よりも心強かったのは、東海大学耳鼻咽喉科の三宅教授(故人)の存在だ。三宅教授は私の慶応病院時代からの恩師で、教授自ら私のクリニックで、毎週一回特別診療をして下さった。
一日の患者さんの来院数が300人位に達した頃(1975年)、ある雑誌社の企画で岡田可愛氏(女優)がインタビュ-にみえた。写真でも分かるとおりその頃の私は若かった。三宅教授から、「こういうインタビユ-があるのは、矢野君が耳鼻咽喉科専門医として世間にやっと認められた証拠だ」、と言われて嬉しかったことを昨日のように思い出す。


 
岡田可愛氏とのインタビュ-
考えてみれば慶応病院のフレマン時代、耳鼻科医の初歩である綿棒の巻き方を教え下さったのも三宅先生(当時は慶応医学部耳鼻咽喉科講師)だった。それから15年の歳月がたち、初めて専門医とした認められたことになる。長い修行の道のりだった。
その後、無限に続くとも感じられる開業医一筋の生活で、私は“医心貫道”を貫いている。
医心貫道 
医心貫道”とは、故武見太郎氏(日本医師会会長)の座右の銘である。
         2013年4月1日
矢野耳鼻咽喉科院長  医学博士 矢野 潮