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第89話「電車通学」
 2013年3月、N700Aには定速走行装置も導入された。東海道新幹線の最高速度は270キロの新幹線が建造され、東急東横線の渋谷駅が大改築された。
渋谷駅の変化の賛否是非が巷間論議されているようだ。自分のクリニックに引きこもり、藤沢からほとんど外出しない私の生活には無縁のことだ。
然し、その私も電車で苦労したことがある。古い話になるが、第二次大戦中、鵠沼海岸に住み、慶応幼稚舎(小学校)に電車通学していた頃は、東海道線は私の生活に直結する生命線だった。言うまでもなく、JRでなく旧国鉄の時代だ。恐ろしいこと、楽しいことを限りなく体験した。
1944年頃(終戦直前)、母と、品川駅から下り電車に乗ろうと思った時、運悪く米軍の空襲に出会い、パニック状態となった群衆に踏みつぶされそうになった。その時、親切な駅員さんが、我々母子を危ないと思ったのだろう。手を引いて改札口でなく、駅員さんの部屋から特別に誘導して下さった。大混乱の中のことで、お名前も伺う暇もなく、お顔も覚えていないが命の大恩人だった事は感謝している。
戦後、慶応普通部(中学)時代、藤沢から品川へ毎日電車で通学した。今と違い電気機関車が湘南電車として走っていた。

 
ダイヤも滅茶苦茶で、車両も超満員だった。上りホームから遠く辻堂方面をみると。電気機関車のデッキに人がぶらさがり、その数が多いと、機関車の先端が膨らんでみえる。その膨らみ型で、電車が混んでいるかどうかを予想することができた。
超満員の客車にはドアから乗る事は出来ず、窓から座席に飛び込むのが普通だった。体が敏捷だったから出来たので今ではとてもむりだろう。その頃、富士駅から通学している猛者が、車両番号と決まった座席に座っていて、“窓から乗車”を助けてくれた。二人掛けの椅子に3人で座るのが常識だった。それこそ、押し合いへし合いの満員電車、夏もクーラーなどなく汗地獄だった。それども今のように痴漢の話も聞いた事がない。皆、生きていくのが精一杯だったのだろう。天蓋のない貨車に乗って、途中から雨が降り出しひどい目にあったこともある。
中学の時だった思うが、学校鞄を窓から落とし、次の駅から鞄を探しながら、線路沿いに枕木の上を歩いたことがある。運良く、線路補修していた人が鞄を保管していてくれて私の手に戻ったが、線路を歩いた危険行為を強く怒られた。その頃の私は今よりたくましかったのだろうか。両親に報告したかどうかは定かではいが、怒られた記憶はないので内緒にしたのだろう。



       2017年3月1日
矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮