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第109話「私の勉強」

 私は生涯に二つの免許証書を得た。医師免許証と運転免許証だ。
古い話だが、医師になった最初の頃、必用にせまられて運転免許取得に挑戦した。
医師免許をとって間もない若い頭脳で運転免許の法規で落第したら笑い者になるのは必定だ。恥をかくのが嫌で、短期間だったが運転法規の問題集を読みふけった。あの時ほど真剣に勉強したことはない。おそらく満点でパスしたと思うが、その運転法規を今では殆ど忘れてしまった。一夜付け勉強のむなしさだ。
 更に話は古くなる。私は幼稚園時代ひっこみ自案の子であった。その私が慶応幼稚舎(小学校)に入学出来たのは、両親の私への思いが常規的でなかったからだと思う。私が5才位の頃、両親から小学校の面接の練習を毎日執拗にくり返しくり返し行われた。父母が交代で試験官になり、口頭試問の練習を行うのだ。「お名前は?」、「何人姉弟ですか?」、「お父様の仕事は?」等々、毎日のようにかなり長期間練習させられた。大きな声で、ハキハキ返事をしないとひどく怒られた。今、考えてみると随分と暇な両親だったと思う。
 
高校に入ってからは医学部に入る事のみ考えた。当時は高校3年生の成績のみで医学部推薦が決められるシステムだった。高1、高2の時は、学校をさぼって年間120本の映画を観た記憶がある。
高3になった時に学外の友人との交際も全て絶ち、ラストスパートに入った。それが成功したのか無事に医学部に合格した。
医学部入学後は、適当に勉強していれば医師国家試験にパスする事はそれほど難しいことではなかった。
1年間のインターン(現在はこの制度はない)は、全科(内科、外科、眼科、耳鼻科等――)を、先輩であるインターン係に指導されながら決められた期間、研修する事が義務づけられていた。然し、各科のインターン係は、我々インターン生を自分の医局に入局させるために優しく親切だった。
然し、耳鼻咽喉科に入局した後の修行は言語を絶する厳しさだった。当時の医局は狭くて医局員が集まると、新人は食事時にも椅子に座ることは許されない。大学病院に入院している患者さんは重症な方が多い。そのため夜になっても、家に帰れないことも多く、睡眠も十分にとれない日々が続いた。“二日前に寝たか、三日前に寝たか忘れた”とい生活も今となっては楽しい。然も、数年間は無給のためで親のすねかじりだった。悪名高い“無給助手”だ。仲間の医局員で失業保険を受けていた者もいる。
先ず、成り立ての新人耳鼻科医は額帯鏡の光を鼓膜に当てる事ができない。要するに鼓膜の治療をするどころか、どこが鼓膜かわからないのだ。今になると非常に失礼な話を告白すると、「春の学校検診で鼓膜を見る練習をするように」、と医局長にアドバイスされた。鼓膜を明視出来るようになるのには、一年位の修練かかったと思う。
 
そして、手術日が大変だ。光を十分に当てられない、新人医師がメスを持つのだ。勿論、ベテランの指導者が付き添うのだが、患者さんにとっては迷惑な話だ。今は医療過誤、患者さんの権利意識が強くなったので、大学病院でもこのような事はない。昔は、大学病院の使命は患者さんの治療より、医師を育てる事だと言われていた。今は患者さん第一で医師の指導は二の次になった。そのため、当然の事だが、一人前の医師を育てるには長期間かかるようだ。
ある程度、医療行為になれた頃、地方の病院に義務出張を命じられる。そこの修業でやっと医師としての技量を習得し、一人前の医師に近づく。後は、医師当人のセンス、性格、努力次第で、優れた医師になれるかどうかが決まる。再び、大学病院に帰り、指導者側になる。私はその頃、開業医になる事を決意した為、日本一の耳鼻科開業医の指導を受け、数年後に藤沢で開業し現在にいたる。


       2018年11月1日
矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮